とんだばやし歴史漫歩
節分
 年中行事の多くが、旧暦と新暦のはざまで季節感を失ったものとなっていますが、春の節分は、今も昔どおりの月日。かつては立春、立夏、立秋、立冬それぞれの前日が『節を分ける日=節分』でありました。立春前の節分のみが残ったのはなぜでしょう。
 陰暦の12月大晦日のトシコシ(年越)と日がほとんど重なるために、忘れ去られることなく今日に至っているのでしょうか。一方では、旧大晦日と日が近いために、どこからどこまでが『節分』行事であり、どこからどこまでが『年越』行事であったのか、もうその区別はつきがたいものになっています。
 明治のころはどうだったのでしょう。「明治17年2月3日 節分ナリ 観心寺年越参リスル」「明治19年2月3日 旧ノ十二月大晦日ナリ 市場存外賑フ。 節分ナリ 年越スル」。大正年間も「大正4年2月4日 立春年越ナリ」とあるように、すでに節分イコール年越でした。ですから、今もお年よりは『セツブン』と言わず『トシコシサン』の方がなじんでおられるように見受けられます。
 その『節分』ですが、龍泉地区で行われていたのは「メッコハナッコ」と「マメマキ」。ひと塩鰯を焼いて身は食べたあと、その頭をメッコハナッコ(柊)に付けて、門口の表と裏とに飾ります。年越のキワの時刻(午後11時半ごろ)に行うのがマメマキ。自作の大豆をいって年の数より一粒多めに食べます。その後、家人が寝静まってから、一家の主(祖父か父)が豆をまきます。「朝起きたら、豆がまいてあったな、子どものころは」(大正12年生まれの人の話)ということになります。
  (平成4年2月号)