埋蔵文化財発掘レポート
西大寺山古墳群の歴史
 市内東部の、大伴小学校の南側丘陵に広がる西大寺山古墳群は、丘陵と丘陵から伸びる幾つかの尾根によって地形ができています。調査前は竹林や雑木林で一面埋めつくされていました。しかし、調査が進むにつれて次第に品現の生活のにおいが感じられ、弥生時代から近世の遺構が見つかりました。
 弥生時代後期には、竪穴住居が北に伸びる尾根の先端につくられました。これらは同じ場所で、建て替えが行われていました。建て替えた後の方が面積が小さくなっており、大家族から核家族へと移っていったのかもしれません。また、尾根の南側には、土器を利用した墓も検出されました。このことから尾根上には集落があり、住居の近くに子供のお墓があったことがわかりました。一般的にこの時期は、集落間で争いがあり、安全をはかるために高い場所に集落をつくっていました。この尾根もその中の一つかもしれません。
 古墳時代になると西側に伸びる尾根の先端に、5世紀前半の直径7メートルの円墳がつくられました。また、7世紀前半には、南側斜面に小石室を伴う古墳が2基つくられ、尾根一帯が墓域として利用されていたことがわかりました。
 一方、中世になると、山城遺構へと役割を変えていきました。この遺構は地形をうまく利用しており、例えば尾根に直交して、平均深さ3メートルの堀切りを南端では二重につくり、北端では一重にそれぞれ東西方向につくっています。さらに斜面を急こう配にすることによって、敵を寄せ付けない工夫もしています。
 また、堀切りで区切られた尾根上には2段の平坦面を造り、ここから敵に矢などをあびせかけていたとも思われます。
 このような形態の山城は、16世紀の遺構とされています。また、地理的にみてこの場所は、嶽山城と羽曳野市にある高屋城との間に位置したことも関係していると思われます。
 さらに、近世になると個人のお墓として利用されていました。
 この尾根は時代の流れとともに、争いから身を守る時期と、墓域としての静かな時期の、両極端な2面性世界が広がっていたと思われます。
(平成8年11月号)