埋蔵文化財発掘レポート
石川中流域の埋没古墳
 私たちが古代の遺跡として身近に感じることができるものに古墳があります。世界的に有名なものとしては富田林の北方、羽曳野市・藤井寺市に応神天皇陵を中心にした古市古墳群が、西方、堺市には仁徳天皇陵を中心にした百舌鳥古墳群があります。これらは今でもその威容を誇る巨大な古墳群です。
 さて、富田林市域の古墳はというと、現在、数例しかその姿をとどめていませんが、かつて、羽曳野丘陵上に、前述の古市古墳群よりも古い時期の古墳が数基、並んでいたり、今はその片りんさえうかがうこともできませんが、石川西岸の段丘上に古墳時代中期後半から後期にかけての時期(今から約1500年前)の古墳が点在していた様子が、ここ数年の発掘調査で分かってきました。
 それらのうち、石川西岸、段丘上の古墳は発掘当時、すでに墳丘は削り取られ、その跡形もなくなっていたため、発掘するまで古墳があったことも想像していませんでした。しかし、古墳の回りに巡らされていた溝のこん跡が見つかったり、古墳の墳丘上に並べられていた埴輪が多量に出土したことよって、かつて古墳があったことが分かりました。また、それらの古墳があったと想定できる場所には小字名に古墳の存在を推測させる「塚」の名がつけられたものもあることから、これらの古墳の存在がある時期までは人々の記憶の中に残っていたことが想像できます。
 これら、今はもうその姿をとどめていない『埋没古墳』は石川中流域、西岸、近鉄長野線の喜志駅から川西駅にかけての段丘上に点在していました。それらの古墳から出土した埴輪は弥生時代以来のムラである「喜志遺跡」、「中野遺跡」、「甲田南遺跡」ごとにまとまって出土していることから、それらのムラを基盤勢力にして各々集落に近接して、小さなグループを形成しながら古墳を築造していたことが想像できます。
 今はもう、うかがい知ることのできない小さな古墳群が、富田林の中央域ともいうべき石川の西岸に並んでいた様子は壮観だったにちがいありません。
(平成7年11月号)