埋蔵文化財発掘レポート
奈良時代の水田址
 昨年12月に行った錦織南遺跡での発掘調査で、奈良時代の水田址がみつかりました。錦織南遺跡は、北は錦郡小学校付近から南は細谷川付近に広がっています。
 調査地は、錦郡小学校の南西約150メートルのところです。この付近は、大きな谷地形になっていて、一番低いところが現在の細谷川となっています。そして、北側の錦郡小学校にかけては一段高くなっています。
 今回みつかった奈良時代の水田址は、現在の水田面から約50センチ下に埋もれていました。水田の境には、地形に沿って南北方向の水路があって、広さは現在の水田よりも小さい区画だったことがわかりました。また、奈良時代から現在まで少なくとも3面の水田面が、土盛りをして整地されながらあったようです。現在の水田には、必要以上の水が自然に抜けるように、にぎりこぶし大の河原石を鳥居状に組んだ暗渠が設けてありました。
 水田の歴史は古く、縄文時代の終わり頃からあったことがわかっています。日本人の米食のルーツがいかに古いかうかがえます。当時の水田は低湿地にあって、小さな区画をもったものでした。奈良時代になると、条里制という水田の区画整理事業が行われ、一定の規則正しい方形の区画をもった水田地割が現れます。班田収受の法といった土地制度が行われたのもこの頃です。
 今回の発掘調査で、調査地周辺の奈良時代の様子がよくわかるようになりました。61年と62年の錦郡小学校での調査で、奈良時代から室町時代にかけて集落があったことがわかっています。そして、大谷女子大学の北側には奈良時代前期の寺院址である細井廃寺があったこともわかっています。こうしたことから当時、集落は錦郡小学校周辺にあって、調査地周辺の一段低い谷地形に水田が営まれていたことが明らかになりました。奈良時代の水田址がみつかった例としては、市内でも初めてのことです。また、大阪南部においても初めてといっていいでしょう。
(平成元年3月号)