埋蔵文化財発掘レポート
毛人谷に眠る人々
 毛人谷(えびたに)という地名を御存知ですか。現在の本町、常盤町、寿町、昭和町、富美ケ丘(ふみがおか)町あたりですが、今回は、南北朝期(14世紀)の城跡と伝えられている毛人谷城跡遺跡の調査を紹介しましょう。
 毛人谷城跡遺跡は羽曳野丘陵の東斜面にあり、大変見晴らしのよい場所です。この頂上で、7世紀前半の古墳4基と、近世の火葬墓4基、城跡の溝が見つかりました。
 このあたりは今、市立西山墓地になっていますが、7世紀にもお墓が造られていたようです。このお墓は、木棺を地面に直接置いて、その上に土を盛った木棺直葬(じきそう)とよばれる古墳です。
 木棺の木は全く残っていませんが、土の色や質の違いで木棺の痕跡がきれいに浮かび上がっています。その中には供献用の須恵器や土師器、木棺の底板や蓋(ふた)を側板に打ち付けた鉄釘(てつくぎ)も残っています。
 この鉄釘は出土した位置から木棺の大きさが復元できます。
 盛土は、ほとんど残っていませんが、3基には周囲に溝がめぐっています。この4基の古墳はすべて南側の斜面に造られています。
 近世になるとお墓の様子は大きく変化します。人骨は火葬され、甕(かめ)に納められます。甕は北側の斜面に4個並んで出土しましたが、二つは上部が削られていたため、蓋がありませんでした。その他の一つには、甕と同じ焼物の蓋が、もう一つには擂鉢(すりばち)の底で蓋をしたものがあります。
 中世には、この丘陵は「毛人谷城」として使用されていました。丘陵の斜面には濠状(ほりじょう)の溝がめぐり、丘陵の平坦面からは硯(すずり)や瓦片(かわらへん)、羽釜(はがま)が出土しています。
 このあたりは字名が寺山や祖師山(そしやま)と呼ばれています。寺山は名前のとおり、寺院でもあったからでしょうか。祖師山の方は『河内名所図絵』にみられます。祖師というのは富田林寺内町(じないまち)の開祖である京都興正寺第14世証秀(しょうしゅう)上人をさしていて「毛人谷に寂(じゅく)し、そこに塚が造られた」とされています。
 今回の調査で発見されたお墓は、毛人谷にゆかりのある人たちのものであったろうと思われます。おそらく、生前に住みなれた場所を一望できる所を選んで造られたのでしょう。
(昭和62年5月号)