わたしのまちの文化財
富田林に鉄道がきた
 明治22年(1889年)5月14日、大阪鉄道(現JR関西線)の湊町(現JR難波駅)・柏原間が開通しました。鉄道の開通によって柏原は南河内の人たちが大阪市内へ出る玄関口となりました。しかし、鉄道に乗るには自分の村から徒歩や人力車で柏原に出る必要があり、柏原から離れた村の人たちにとっては不便でした。
 そこで24年、柏原・富田林間で鉄道馬車の敷設が計画されました。これは石川の堤防の上にレールを敷いて軌道とし、8人乗りの客車を馬に引かせるというものでしたが、出願の運びまできて中止されました。
 25年、富田林の有力者たちが中心となって大阪鉄道の平野または八尾から富田林、三日市、橋本を経て和歌山へ通じる鉄道を敷設する計画が立てられました。河内線と名付けられたこの路線は、同年6月に公布された鉄道敷設法による計画路線を誘致しようとするものでしたが、当時の政府の方針とは合わず、挫折してしまいました。
 さらに26年には、柏原・長野間に鉄道を敷設する計画が立てられ、27年7月、国に河陽鉄道株式会社創立の願書が提出されました。
 そして29年2月、ようやく河陽鉄道の創立と開業の免許がおり、同年12月5日に道明寺天満宮で起工式が執り行われ、31年4月14日、ついに柏原・富田林間が開通し、営業が開始されました。
 開通日には、周辺の町や村から多くの人たちが富田林駅に集まり、餅まきや花火、相撲などをして開通を祝いました。
 ところで、26年の計画当初の路線図では、石川に沿って鉄道が描かれていたことが「河陽鉄道株式会社目論見書」から分かっています。つまり、現在のルートとは異なり、東高野街道の東側を通っているのです。結局この路線ではなく現在の近鉄線の路線で計画が進められたのですが、計画当初は24年の鉄道馬車敷設計画と同じルートで計画されていたのかもしれません。
 当時の目論見書や路線図を国立公文書館のホームページ「デジタルアーカイブ」〔https://www.digital.archives.go.jp/〕でご覧いただけます。石川に沿って鉄道が描かれている路線図を見ながら、その路線図で計画が進められていた場合の富田林の姿を想像してみるのも面白いかもしれません。
(平成28年3月号)