わたしのまちの文化財
楠公夫人生誕地
 南河内で活躍した歴史人物の中で最も有名な人物は、今でも楠公さんと呼ばれ親しまれる楠木 正成でしょう。その正成を支えていたのが夫人の久子です。
 久子の出身については、「甘南備の矢佐利南江氏の生まれ」という言い伝えがあり、甘南備地域を流れる佐備川の東岸丘陵地、小字「ヤサイ」周辺と考えられています。この地は、後に久子が出家し、一族の冥福を祈った場所である「楠妣庵観音寺」の東に位置しています。
 明治期以降、「正成の死後、子の正行らを厳しく教育し立派に育て上げた」という話に代表されるように、久子は女性の鏡として多くの書物に取り上げられるようになりました。
 昭和12年には、楠公夫人顕彰のために結成された楠母会などが中心となり、「ヤサイ」の地に婦人のための修養道場として若楠寮が建設されました。
 14年になると楠母会や南河内郡の女性教員の組織などを中心に、楠公夫人の神社を建設する計画が進められ、南河内郡や堺市の小学校の他、府立や私立の高等女学校の生徒たちからも献金が集まりました。
 神社は若楠寮の裏の丘陵地に建設されることになり、「楠母神社」と名付けられ、神社の完成に伴う遷座祭が15年11月22日にありました。
 17年になると、本市をはじめ、大阪市内からも国民学校の児童らによる楠母神社への参拝や、若楠寮での勤労奉仕などが実施されるようになりました。
 また、太平洋戦争が激しさを増す中、19年には大阪第一師範学校(現大阪教育大学)付属国民学校の児童が、若楠寮を分教場として集団疎開をしました。
 戦後、若楠寮は若楠学園と名を変え、戦争で親を亡くした子どもたちを保護する施設となりました。そして、時代の変化とともに、さまざまな事情で親と離れて暮らさざるを得ない子どもたちのための養護施設となりました。その後、46年に羽曳野市の高鷲学園内に移転するまで、この地で多くの子どもたちが育ちました。
 時代背景こそ違うものの、楠公夫人の生誕地で、多くの子どもたちが立派に育っていったことは、何か深い縁を感じます。
 なお、楠母神社は現在、その姿をとどめていませんが、石碑や狛犬などが散見され、当時の面影を残しています。
(平成24年6月号)