わたしのまちの文化財
河内木綿の織機
 富田林を含む河内地方は江戸時代、全国有数の綿作地帯でした。栽培された綿は女性たちによって織られ、河内木綿として全国に知れ渡っていました。富田林も南河内の流通拠点として栄え、河内木綿は寺内町の卸問屋を通じて、近江地方に広く販売されました。
 この河内木綿が、どのような道具によって織られていたのかをご紹介します。
 河内木綿を織った織機は、腰機(こしき)と呼ばれるタイプです。腰機とは、織り手の腰にひもをかけ経糸(たていと)を固定し、織り手と一体となる織機です。河内地方では、このような木綿を織るための腰機を総称して、下機(しもばた)と呼んでいたそうです。
 写真の下機は、市内の旧家で使用されていたもので、綿栽培の時期や関連道具の墨書きから江戸時代後半のものと考えられます。この下機は解体され収蔵されていましたが、組み立てるとかなり急な傾斜を持つ織機だということが分かります。この傾斜は下機独自のもので、傾斜が急な理由はまだはっきりと分かっていませんが、狭い場所での使用や作業効率向上のために、この傾斜になったと考えられています。柱の部分には、「根本古市北郷」「細工人車屋清七」と作られた場所や製作者の名前が墨書きされており、これは非常に珍しく貴重なものです。
 この下機で木綿を織るには、まず経糸が二本と緯糸(よこいと)が一本必要です。経糸を互い違い上下に分け、刀杼(とうじょ)と呼ばれる緯糸を通す道具を使い、その間に緯糸を通して打っていきます。これが終わると経糸の上下を入れ替えて、再び緯糸を通して打っていきます。この繰り返しで布が織られていきます。織り手は経糸の上下を入れ替えるときや、緯糸を通す際に腰を引いたり、緩めたりする運動が必要となるため、腰には相当負担がかかったそうです。
 しかし、この下機は明治時代に入ると、高性能で使い勝手のよい織機の登場によって、使用されなくなりました。さらに、国内の綿栽培は、外国から輸入された綿との競争に破れ急激に衰退し、その織機も次第に姿を消していきました。当時は生活に欠かせない道具として当たり前のように使用されていたこの下機は、今では貴重な文化財として大切に保管されています。
(平成19年11月号)