わたしのまちの文化財
府指定史跡『東高野街道錦織一里塚』
 市の南西部、旧国道170号が河内長野市に差し掛かる直前の東側に、小高い丘があります。この付近は、かつて、北は京都、枚方を出発し、喜志から現在の市中心部に入って南下、錦織方面を通過し、河内長野を経てから高野山へ向かう参詣道である東高野街道が通っており、この丘の上には、東高野街道の一里塚があります。
 一里塚とは、一里(約4キロメートル)ごとに土を盛って造った塚を街道の両側に置くもので、それぞれ西塚・東塚と呼ばれており、塚の上には、榎や松などが植えられていました。塚は、一般的に30尺(約9メートル)四方の大きさで、単に道のりの目安を示すだけのものではなく、その木陰で旅人が休むことのできる休憩所としてもよく利用されました。日本では全国的に街道が整備される江戸時代以降に、多く作られるようになりますが、もともとは中国で造られていたものです。
 現在、丘の上には、一辺の長さが約9メートルで、高さ2メートルの西塚の跡が見られます。塚上の宝篋印塔には、宝永6年(1709)建立と刻まれており、塚の築造はそれ以前であることを証明しています。また、その南側にも承応2年(1653)という年号が刻まれた宝篋印塔があり、ともに、西国三十三ケ所参りに満願した供養の記念として造られました。また、西塚の頂上には一本松があったこともわかっています。
 一方、東の塚は、時代とともに、流れる位置が変化した石川の浸食を受け、完全な形では残っていませんが、残っていた部分から塚で あったことがわかります。
 このように不完全ながらも東西で一対になっている一里塚は、府下では唯一の例であり、非常に貴重であるということで、「東高野街 道錦織一里塚」は、昭和45年2月20日に府指定史跡となりました。
(平成16年4月号)